2012.09.20
F生

「直木三十五伝」

「芥川賞」と「直木賞」という有名な文学賞があります。

どちらも文藝春秋社が主催しているもので、
「芥川賞」の正式名称は「芥川龍之介賞」で、純文学の短編を対象として新人作家に授与されます。
「直木賞」は正式には「直木三十五賞」といって、大衆文学を対象としており、作品の長さや著者の経歴には制限はありません。

芥川龍之介は、「鼻」「河童」「羅生門」など著名な作品が多く、学校の教科書にも掲載されていることから、誰もが知る非常に有名な作家です。
片や直木三十五については、せいぜい「南国太平記」を書いた人くらいの認識で、世間的にも「直木賞」の名称以外の知名度は低いと思われます。

最近、たまたま「直木三十五伝」(植村鞆音著 文藝春秋社)という本を読んで、その破天荒さに驚いたので、ブログのネタに取り上げてみました。(ほかに大した本を読んでいないというのが、一番の理由だったりしますが・・・)

直木三十五伝 [単行本] / 植村 鞆音 (著); 文藝春秋 (刊)

1891年生まれの直木三十五(本名:植村宗一)が、どれくらい破天荒かというと、この伝記を読んでもらうのが一番なのですが(手抜きか!?)、

ちょいと例をあげると、
・学生時代に年上の女性と同棲して、仕送りを使い込み、なおかつ借金をしながら派手な生活をし、あげくに学校を中退するけれど、仕送りが途絶えないように、親には在学中とした上で、最後はニセの卒業写真捏造で切り抜ける。

・起業家としての野心が強く、金のある友人を巻き込んで、出版社を設立し、放漫経営(本人は放漫とは思っていない)で借金を重ねたあげく、関東大震災のドサクサに紛れて、大阪に遁走。その上、映画製作に携わって、またまた借金。そして踏み倒す。

・新し物好きで、当時珍しかった外車を自家用車として保有したり、無口なのに、気に入った女性には積極的にアプローチして火宅の人となる。
などなど、エピソードが多すぎて、書ききれません(と、お茶を濁してみる)。

彼の基本スタンスは、まず消費(浪費?)、その後、それに見合う収入を得るために働いて、マイナスを補填する、というもので、
流行作家になって、十分な収入を得られるようになっても、先行して消費しているために、常に借金を背負い、貧乏なのに派手(?)という奇妙な生活をしていたのでした。

無口で傲岸不遜に見えたため、敵も多く作ったけれど、その反面どこかシャイなところがあって、少しでも親しくなると見捨てることができなくなるという稀有な性格の持ち主でもありました。

特に、菊池寛(文藝春秋社主であり、流行作家。主な著書「恩讐のかなたに」「真珠夫人」)は直木三十五に惚れ込み、公私共に直木を支えるとともに、43歳の若さで直木が病没すると、すぐに彼の名前を冠した「直木賞」と「芥川賞」を創設したのです。
持つべきものは友ですね。

今回の結論: 「友達は大切にしましょうね」

と、ここまで書いてみましたが、いかにも「やっつけ感」は否めないですね。
面白い伝記本とはいえ、その面白さを伝えるのは難しいものです。

最後に、直木三十五のペンネームに関する有名なエピソードを追加して、今回のブログを逃げ切りたいと思います。

彼は1921年、本格的に作家活動を開始するにあたり、ペンネームを直木三十一としました。
苗字の「直木」は本名植村の「植」の字のヘンとつくりを分解したもので、名前の「三十一」は、そのときの年齢です。(でも、この年、彼は30歳)
1923年、32歳になって、直木三十二と名乗り、
翌1924年、直木三十三と名乗り、
翌1925年、三十四はなんだか嫌だなぁ、と一回飛ばして、
翌1926年、直木三十五にペンネームを変更。
その後、1934年、43歳で亡くなるまで、ペンネームを直木三十五で通したのでした。

きっと、改名するのが、面倒になったのでしょうね。
あるいは、著作権の管理が面倒になってきたか?
あるいは、単に年齢をさば読んだのか?若いほうがモてると思ったのかなぁ・・・。
さすが破天荒。平成ノブシ・コブシのどちらかと、破天荒さの年季が違うのです。

横浜にある直木三十五の石碑には「芸術は短く、貧乏は長し」と刻まれているそうです。
確かに、直木の著作はもはや人々の記憶になく、平成不況およびリーマンショックの追加打撃により、貧乏は長く続くのでした。(なんのこっちゃ)

F生

一覧に戻る