9月になりました。秋です。
秋といえば読書です。
この流れで、今回も最近読んだ本を紹介して(お茶を濁したい)みなさまの読書の参考にしていただければと思います。
で、最近読んだのが「読んでいない本について堂々と語る方法」です。
実は、こんな本を読んでしまったために困惑、そして混乱しています。

なんかふざけた書名の本ですが、著者はフランスの大学の文学教授で精神分析医でもある(そうです)。
その内容は読みやすいのに難しく、理解できそうで掴み所がなかったりします。
建て前としては「読んでない本」について語るためのハウツー本なのですが、その前提として「本を読んだ」とはどういう状況なのかを問われます。
さらに畳みかけるように「未読」とは何なのか?(?)と問いかけてくるのです。
著者の定義する「未読」は一般概念を拡大していて、以下の内容すべてです。
1.ぜんぜん読んだことがない
2.流し読みや斜め読みをした、あるいは、ざっと読んだことがある
3.人(テレビやネット)から本の内容を聞いたことがある
4.読んだことはあるが、忘れてしまった
1. は、我々が普通に思いつく「未読」ですね。
2.と3.については、我々が「読んだことがある」と言う(言ってしまいそうな)状況です。
4.は内容を忘れても書名を知っていれば「読んだ」と言ってしまいますね。
※たとえば、我々は「シャーロック・ホームズの探偵譚を読んだことがある」と言ってしまいがちですが、具体的な作品について語るのは困難です。
「バスカヴィル家の犬」の犬種も知らないし、何回吠えたかも記憶していません。さらに「まだらのヒモ」と「真鱈の干物」の区別さえついていないのです。
著者は、2.~4.の「未読」の状況でありながらその本について語る我々は、「1.ぜんぜん読んだことがない」本についても堂々と語っていいじゃないか、と言ってるわけです。
(いや、著者はそこまで言ってないかなぁ。でも、たぶん、こんなニュアンスことを書いてるよね。知らんけど)
このような前提に立って、著者は「読んでいない本」について堂々と語っていたであろう著名人の姿勢を例示しつつ、
著者自身も「読んでいない本」について堂々と語るのです。
たとえば、「薔薇の名前」(ウンベルト・エーコ著)について、そのあらすじを語っていくうちに、ついに真犯人までも明かすのです。
(あー、「薔薇の名前」の上下本は昨年暮れに買ったまま積ん読状態なのに・・・)
「吾輩は猫である」については、登場人物の迷亭が知りもしないことを堂々と知っているように語るのを「読んでいない本について堂々と語る」のと変わらないのだと言ってます。
さらに、猫の名前について「ルドルフ」であると明らかにした上で、でも「イッパイあってな」と訂正し、「一杯ある」というのは「ない」に等しいので、「名前はまだない」と言い切ってます(ウソ)。
こんな混乱した状況で、本来紹介する予定だった「百年の孤独」について何を語れば良いのでしょう。

「百年の孤独」はノーベル文学賞作家ガルシア=マルケスの代表作のひとつで、
南米のマコンドという町とそこを開拓した一族のおよそ100年にわたる盛衰を描いた物語です。
大河小説のようでありながら、内容は奇想天外自由奔放で、錬金術師が出てきたり、死人が生き返ったり、人が空を飛んだり、時間の流れが輻輳したりして捉えどころがありません。
SFなのかファンタジーなのか純文学なのか、ジャンル分けも困難なので、マジックリアリズム小説と言われているのでしょう。
文庫本で620ページほどあって、ほぼ1ヶ月かけて読みましたが、イメージだけ残っていて、内容は記憶していません。
これはホントに読んだと言えるのでしょうか?
「読んだかもしれないのに堂々と語る方法」が見つけられません。
こうなったら「『百年の孤独』を代わりに読む」 (友田 とん著 ハヤカワ文庫NF)を読むしかなさそうです(なんのこっちゃ)。

20世紀100年間の話題の本100冊について、歯に衣着せない書評を展開する痛快無比な対談集。
本は好きに読めばいいじゃん、って開き直れる。

本はデータベースと同じだから、いつでも読めるように(いつか読むために)手許に置いておくだけでいいという積読のススメ。
「読んでいない本について堂々と語る方法」と通底している。
F生